共謀罪成立
今日は共謀罪の成立した日だ。戦後の焼け野原から新しい社会を求めてきた時代の終わる日だ。もちろんこれは悲劇だが、一方で再建の日の始まりでもある。本当に自由と民主主義を求める勢力が、新たな時代を作り始める日でもある。
昨日までの、ただ数とカネと権力に寄り掛かった考えることをしない人たちの時代から、誰もがきちんと自分の考えを持つための始まりの日でもある。法は廃止できる。それを目指すことも大切だが、死文化させることも重要だ。すなわち適用できない状況を作ってしまうことだ。立法機関(国会)は法を作ろうとするが、実際には使うことのできなかった法文もたくさんある。本来廃止すべき法が放置されたままになっている事例もたくさんあるのだ。つまり立法は万能ではないのだ。
憲法は生き続けている。憲法は、憲法に反する法の制定を禁止している。だから共謀法が違憲となれば、法の側が効力を失う。それが違憲立法審査権の趣旨だ。ただしそれは個別の事件によって審査されるので、まず法によって罰せられる事件が先になければならない。しかしそれが明瞭に違憲であるとすれば、行政側もその法を使うことに消極的になる。つまり死文化するのだ。
共謀法の成立によってそれを「忖度」し、自己規制することが最も危険な変化となる。抵抗は特別なことをすることではない。今まで通りに暮らすことだ。大切なのは自己規制せずに今まで通りに在ることだ。そうすることが最大の共謀法適用に対する規制になる。特別な事情がなければ「違憲立法」となる可能性が高まる以上、法を使うことができないからだ。
抵抗は特別なことではない。法が存在しなかったときと同じように暮らすことだ。そして、もしそれが共謀罪の適用対象になったならば、違憲立法だと主張しよう。なんだか大きな段差を乗り越えてしまったように感じるかもしれないが、実は事態はあまり変わっていない。それが浸透するならば、次に法を廃止させよう。危険なのは委縮すること、自己規制することだ。メディアがダメになったと聞くことも多いが、実はテレビ視聴率、新聞購買数ともに減り続けている。今や最大のメディアがSNSやブログなど、インターネットに移行しつつあるのだ。そう、自らがメディアになればいい。
違う状況になってはいても、私たちには別な次元の自由がある。そこに次の時代の萌芽がある。
2017.6.15 記 田中優