田中優より
「カウラ大脱走なるものがあって、それがフィルムになっていて、それに石田純一さんが出ていたなんて初めて知った。当時の背景からしたら当然あり得るんだけど、驚く内容。
ぼくは石田純一さんと面識はないが、石田壱成くんと親しくしていた。
彼は正直で素直で隠し立てをしない人だ。
その彼が後に純一さんと親しくなって家族づきあいができるようになった。
その彼が純一さんと親しくなるきっかけになったのが、収録で一緒になった時の打ち合わせの時間に、「原発に反対してるの?」と聞いたせいだったという。
純一さんは正面から問題を説明し、反対する理由を述べたそうだ。
そこから彼は父としても尊敬し始めたように思う。おかげで打ち合わせ時間はなくなってしまったそうだ。
ぼくはそのやりとりで、すっかり純一さんを好きになってしまった。
いつも低姿勢で笑顔を絶やさない裏で、自分を持ち続けている人だと思った。」
◇ ◇ ◇ ◇
ウォン ウィンツァンさんfacebookより
★石田純一が知った戦争の不条理
内沼 良晴さんより
菅原 秀さんのコメントが良かったのでコピペさせてもらいます、以下。
7月9日
★石田純一が知った戦争の不条理
石田純一が都知事選出馬の可能性について記者会見をしたところ、「あんな奴論外だ」とか「無知な人間に知事が務まるはずがない」などの書き込みがあふれているが、どなたも石田純一が、なぜ国会前で飛び入り発言をしたのか、彼を突き動かしたのはなんであったかということに、気づいていようなので、お伝えすることにしよう。
今から30年も前の話になるが、石田純一から難しい相談を受けたことがある。
俳優になったばかりの彼は、あのジョージ・ミラー監督に認められ、オーストラリアのテレビドラマ・シリーズの主役として抜擢されたのである。しかし、”Cowra Breakout” (カウラ大脱走)というタイトルのそのドラマは、当時の日本兵が遭遇していた極めて難しい立場を理解しない限り、演じきれないものだった。
相談というのは、渡豪する前に、当時の日本兵捕虜の心理状態を知りたいというものだった。
シドニー西部250キロのカウラ戦争捕虜収容所にはドイツ人、イタリア人、日本人、朝鮮人など1万数千人の戦争捕虜が収容されていたが、約2000名の日本人だけは異質な存在だった。
つまり、当時の「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を真に受けて、「自害せずに捕虜になってしまった自分は国賊だ。もし故郷にばれたら故郷の家族は村八分になるだろう」という恐怖にさいなまれ、生きた屍のような状態だったのである。当時の日本は国際赤十字条約(ジュネーブ条約)には加盟しておらず、カウラ収容所の捕虜たちについてもひた隠しにしていた。
そんな中、1944年8月5日、日本兵1104名が「死ぬため」に突然の脱走を開始、機銃掃射する豪兵に向けて素手で立ち向かい、231名が銃殺され、豪兵4人が踏み倒されたり殴られたりして死亡したのがカウラ収容所事件である。
初めてカウラ収容所事件を知った私は、その異常さに驚くとともに、資料を探したが、見つからず、石田純一には戦陣訓のコピーと、当時の兵士が守ろうとしていた日本の「国体」について論じた論文と、豪州北部のダーウィン事件という日本軍が関与した事件の資料を渡した程度であった。
TVシリーズはオーストラリアで大ヒット。石田純一は、国際派俳優の第一号となったわけだが、帰国後話してくれたところによると、ジョージ・ミラー監督は、「生きて虜囚の辱めを受けず」という感覚や、万歳と叫んで死ぬ兵士が存在する感覚がなかなかつかめず、撮影の合間に長い時では4、5時間もかけて討議をし、納得できない限り撮影しなかったそうである。
そして数か月にわたる長期ロケで、お互いに戦争の悲惨さを心の底から実感し、戦争がない世界を作ろうと誓いあったそうである。
特異な状態に置かれて、集団で自殺行為をした日本兵たちの、この映画を通じて、石田純一は戦争の悲惨さの一部をのぞくことができた。海外派兵を容認する法改正に反対するデモに、いてもたってもいられずに参加した石田純一には、こうした原体験があるのだ。
★動画:カウラ大脱走
「The Cowra Breakout (1984) (TV Mini-Series) Trailer (From Japanese vhs)」
→ https://youtu.be/GjR1PXjjO8g