2017年10月11日

『 危険性は確率の問題 』~双子スイカの話~

田中優無料メルマガより

『 危険性は確率の問題 』


■ 双子スイカの話

 「福島民友」という地方紙に『双子スイカ収穫』という記事が載った。大きなスイカだが双子スイカという名の通り二つが一つになって成っている。郡山市で採れたもので、座布団に乗せ、数日展示するという。こうした双子の作物は時々発生する。それが巨大なスイカだったところが従来例のない話だった。おそらくは細胞分裂するときに何らかのダメージを受けて双子状になったが、その後は遜色なく育ったのだろう。

 この地域は放射線量が高い地域だから、それによるダメージと考えられる。
アメリカのスリーマイル原発事故の後、こうした形態異常が多発していたから、その後はこうした記事が載るのを気にしていた。国内の記事では、福井県から名古屋方向に抜ける風の流れる道に沿って、こうした記事が見出される。

 しかしこのスイカを調べたとしても、放射能がとりわけ高いということはおそらくないはずだ。実際に調べてみたことがある。川の生物調査に駆り出されて、川の生物の汚染調査をしたことがある。そのときたまたま捕れたのが背骨の曲がった魚だった。福島の原発事故よりずっと前の話だ。でも汚染レベルは低くない都内の河川だから、その魚を調査に出すことにした。結果は「汚染なし」だった。他の魚と違いはなかったのだ。

 考えてみるとそれは当たり前のことだ。その魚はたまたま細胞分裂して大きくなっていく途中で遺伝子に損傷を受けた。たまたまのタイミングで背骨が曲がったのだ。それだけのことだから、他の魚と違うところはない。もちろん食べても問題はない。


 こうしたダメージが生まれるのは確率の問題だ。全体の中で確率的に一定数生まれる事態だ。だから気にすべき点は、全体の中で確率を高めるようなことはすべきでないということだろう。水に一滴の毒物を垂らすならば、その確率が上がってしまうのだ。問題は日本にこうした確率を高めることへの懸念がないことだ。ニュースとして紹介されるとしても、「珍しい」だけのことで終わってしまう。遺伝子にダメージを与える放射性物質の増加を問題視しないのだ。むしろ問題視すれば、逆に「風評被害だ」とされるだろう。


■ 周産期死亡率の上昇

 2016年10月、地方紙に「福島原発事故の10か月後、周産期死亡率が急上昇」という記事が出た。周産期とは「22週目から産後一週間」の間を指し、その22週目は人間として胎外でもぎりぎり生存可能な時期を指している。それが福島と宮城・岩手・茨城・栃木・群馬で15.6%もの増加 千葉・東京・埼玉でも6.8%も増加していることが、アメリカの専門誌に発表されたそうだ。胎外でも生存可能ということは、生まれて生きていたかもしれないということだ。その死亡率が急上昇している。

 また福島などで急上昇している数に、「慢性リウマチ性心疾患」というのがある。これが事故前の全国第四位(全国平均の1.79倍)から、2016年には第一位(全国平均の3.1倍)へと上昇している。この病気はチェルノブイリの際にウクライナで急上昇したことが知られている。症状があれば「放射能障碍者として認定される」リスト(「チェルノブイリ障害者認定」という)の第16に、「慢性リウマチ性心疾患」として取り上げられている疾患だ。この疾病が事故後の福島で急増している。


 本当は当たってほしくない想像だが、現実は無慈悲に現実を突き付けてくる。岡山にたくさんの人たちが避難しているのは、こうした現実に気づいた人たちもたくさんいることを示している。


■ 「確率」と「被害」の合間

 「双子スイカ」を調べてもおそらく汚染は確認されないだろう。だからその個体を示しても証明にはならないのだ。しかしこの現実は、汚染されていない水に毒物を一滴垂らすことに似ている。毒物一滴の被害はおそらく生じない。しかしだからといって毒物を一滴加えることは「安全」ではない。被害を生む確率を高めていくからだ。同様にダメージを受けた側を責めるのもお門違いだ。双子スイカは汚染されていないだろうし、他の遺伝子ダメージも考えにくいからだ。

 責めるべきは毒物の一滴を加えたことだ。遺伝子にダメージを与えるものは他にもたくさんある。有害化学物質もそうだし、発ガン性の認められるものはみな同様だ。自然界にだってたくさん存在するから、あくまで確率を高めているだけなのだ。しかし、そのダメージの確率を高めることは一切すべきでないと思う。ダメージを受けた個体を差別すべきでもない。


 それが「放射能汚染は存在せず、その被害はない」ことになっている日本の現実なのだ。ぼくにとって一番大切なのは子どもたちの健康だ。それさえあれば何とかして生きて改善していくこともできると思うからだ。ところが無慈悲な現実はこうした現実を伝えてくる。聞かなかったことにしても現実に変わりはない。それとももっと深刻な現実を見ることで、たいしたことはないと思えばいいのか。これは稀なことだから、確率的に揺らぎの中に無視するしようとするのだろうか。どうすればいいのだろうか。


 全く新しい現実を前にして、「確率」と「被害」の合間に私たちは立ちすくんでいる。そんな時にいつも考えるのがもっと大きな現実だ。100万年前、神戸はただの平地だった。それが突如として盛り上がって今の山脈を造った。地球の活動はなおも続き、伊豆半島はパプアニューギニア沖から今の場所に衝突した。


 ところが私たちの発想は、まるで縮こまって小さな箱の内に閉じ込められているようではないか。Aという事態はBと関係ないかもしれないが、関係あるのかもしれない。それをどう捉えるかはその人の思想や選択に任されている。だから悩まされるのだ。


 どんなときも変化の時で、私たちの前には選択したことの「確率」と「被害」だけがある。ぼくには双子スイカに私たちが選択してしまった原子力発電所の未来があるように思える。