2015年9月22日

『原点ってなんだろう?』

『原点ってなんだろう?』   未来バンク事業組合 理事長  田中 優   

■生き物の居場所   

ふと思った。ぼくの活動の動機は何なのだろうと。

理不尽なことがまかり通るのは許せない。そうした正義感はある。でもそれは正義感であって環境を守ろうとする活動の動機とは直接つながらない。    

なんでなのか、考えていくと自分の過去に遡っていく感じがする。ほんの幼い頃に味わった、不思議な匂いのする記憶だ。春先の森の中、なんだかうずうずするような匂い…夏の森の甘ったるい匂いアゲハチョウの幼虫の発するいやな匂い…。それらが混然一体となった記憶だ。   

ぼくはそこに生命を感じていた。だから自分が弱ってしまった時には森や川、山に入ることで自分の生命力を回復していた。

そこにいれば自分があるがままにいられる気がした。何が起ころうと自分はたった一つの生命に過ぎないし、だから自分のままで生きればいいと。

観光地の写真になったような風景は嫌いだ。看板通りで自由のない場所には生命を感じられないからかもしれない。

それとは逆に、誰も目を向けない風景に美しさを感じる。特に生き物たちの視点に立つと、その小さな場所に永遠を感じるほどの豊かさが見える。川の瀬と淵にはそれぞれ異なった魚が集まり、石の下には小さなざざ虫たちが棲んでいる。森の木々は光を奪い合い、より強い光を求めたり、弱い光に順応したりする。    

あるとき大人たちの釣りにつきあって川に行った。大人たちはちっとも釣れず、その日最大の魚を採ったのはぼくの網だった。 「この子は魚の居場所がわかるんだな」と言われた。当たり前のことなのに。 

 ■色とりどりの石    

ぼくの生命は自然の一部だ。そう感じるから静かでいられる。   

それなのにその自然を壊そうとする人たちがたくさんいることがよくわからない。
大きくなってやっとおカネのためなのだと知った。
でも未だに自分の足元を掘り崩してしまうような行為を繰り返して平然としていられる理由がわからない。もしかしたらそうした人たちは、自然の一部という感覚を持たないのかもしれないなとは思う。    

でもなんでそうした人たちは生き続けられるのだろう。
意味のない生命になってしまうと危惧するのだ。     

今年も出かけた岐阜の板取川上流の川浦(かおれ)渓谷で、友人の福ちゃんが沢登りの途中で言った。   

「キャンプ場のあるあたりだと、石はみんな苔がついてしまって茶色しとるやろ。
昔はこの沢みたいにみんな色とりどりで、
その中の白い石を拾って淵(深くなっているところ)に投げて、潜水して拾って競ったんや。
そうやって泳ぎを覚えたんや。
ここの石は全部色とりどりだけど、これが下流までずっとそうだったんや」    

その言葉は気持ちに突き刺さるようだった。無垢なるもの、穢れなきものを人間が壊してしまっている。福ちゃんは、それが残念で仕方ないのだ。   

科学的に言えば、これは上流のダムや堰で水を止めてしまうせいだろう。水は流れていなければ腐る。腐るというのは微生物が大量に発生することだ。その微生物は瀬(流れの早い浅いところ)では暮らせないが、少しでも水が緩やかになればそこに棲みつく。それが石のぬめりを作るのだろう。今よりたくさんの人が住んでいても、かつての川は無垢なる流れを続けていたのだ。 

■無垢なるものを壊すな    

ぼくが活動する原点はここにあるのだと思う。無垢なるものを汚したり壊したりするのが嫌なのだ。そうだとすると、この感触を味わったことのある人でなければ、この破壊を止めようとはしないだろう。それに慄然とする。     

もう手遅れかもしれないからだ。
無垢なるものに対する畏敬の念がなければ、自分の生命が自然と一体化する感触がなければ、自然はただのでくのぼうで、邪魔者に過ぎなくなってしまうかもしれない。そこに生きている生物たちの側から見なければ、全体でひとつになる生態系の美しさは知ることができない。   

「この子は魚の居場所がわかるんだな」と言った大人たちは、もしかしたら知らないのかもしれない。生命がびっしり詰まった曼荼羅のようなこの世界を。

経済なんて意味がない。ましてカネなんか使い方次第で悪の根源になる。どんなにカネが儲かろうが、経済的利益があろうが、人間には壊してはいけないものがある。

ぼくにとって自然エネルギーの進展や省エネ技術の発展に期待する理由は、その問題を解決できる方法のひとつだからだ。

ぼくらがもう一度慎ましく生きれば、かつてたくさんの人が住んでいた地域なのに川も山も壊さずに生きられた時代に戻れるかもしれない。    

板取の山は一見豊かに見えるが、奥地以外の森は一度は壊された森で、戦後の拡大造林計画で植林されたものばかりだ。植林以前をイメージしてみると、森はひどく破壊されていた時期があることがわかる。   

その証拠に森の中のマツが枯れ始めている。マツは火山噴火のあとのような荒れ地に真っ先に生えてくる。そして豊かな土になって他の木が育つようになると枯れていくのだ。そのマツの寿命は長くないし、育ち具合から見ても百年と経たないように見えるから、その時期に荒れ地になった時期があったのだと思う。    

それは二つのことを教えてくれる。  

ひとつは敗戦からわずか70年で森はかなり回復するということだ。それなら今からでも自然を回復させることはできるかもしれない。   

そしてもうひとつは、資源浪費の最たるものこそが戦争だったということだ。
戦時中にはマツからヤニを採取して、飛行機の燃料にしようとした時期すらあった。実際には成功しなかったようだが、各地のマツにはマツヤニが採取された跡が残されている。 

戦争は人にとって有害なだけでないのだ。 生命そのものを支える自然を、これ以上壊さないでほしい。 

この思いがぼくの原点にある。原点に忠実に生きたいと思う。    
それがぼくが生かされている理由でもあると思うからだ。    






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