(2012.2.16発行 有料・活動支援版メルマガ
"未来レポート" 第7号より)
前編 http://archive.mag2.com/0000251633/20141020093420000.html つづき
「それでも夜間の大学でしかない」という思いは、ずっとついてまわっていた。
中卒から仕事を始めて10年近く、自分は一度も自由に生きてきたことがないように思っていた。そこで大学卒業と同時に仕事を辞めた。
それまでに貯めたわずかな貯金で、一年間だけ自分の好きに暮らそうと思ったのだ。しかし大学での勉強が楽しくなってしまっていたぼくは結局聴講生として大学に残り、朝から晩まで勉強ばかりする暮らしに入ってしまった。それでも楽しかった。自分の意志のとおりに暮らすことのすばらしさを、存分に感じることができたからだ。
「夜間の大学だからダメだ」という思いを払拭できたのは、国家公務員上級試験に受かったときだった。国立有名大学の卒業生ばかりの中、自分も同じに面接を受けている。
しかし、ぼくも少しは賢くなっていた。この性格では、組織から排除されるのは時間の問題になるだろうと感じていたのだ。国家公務員では全国どこに飛ばされるかわからない。同時に受かっていた地方公務員のほうを選択することにした。
左遷されても自治体の外には出されない。
その選択は正しかったと思う。やっとのことで学歴コンプレックスを脱して、職に就いた。
しかしぼくは精神的にすごく武装して、仕事に通い始めた。誰とも友達にならない。必要のないムダなつきあいはしないと。誰かに影響されるのにうんざりしたからだ。
仕事はやりがいあるものだった。地方自治体は、直接住民に接して仕事をする。
特に最初に配属された生活保護のケースワーカーでは、関係することならなんでも詳細に勉強した。直接人に関わるから、いいかげんにはできなかったからだ。
仕事をするかたわら、環境問題に関わり始めた。他流試合をなるべくするようにしていたから、少しすると国内のNGO活動の一翼を担うようになっていった。
最初は神々しく感じていた学者や専門家の人たちとも、特別な人ではなくなっていく。
あるとき、大学院に行きたいと思って受験した。結局は「あなたに教えられる教員はいない」と体よく断られた。しかし翌年、友人の大学教授から「ウチの大学院で教えてくれないか」と頼まれた。
大学院出の友人に、「どんな授業をやっているんだい?」と聞くと、「大学と同じですよ」と教えられた。「そうか、あんな程度でいいなら」と授業するようになった。今では大学院二つと大学一つで授業をしている。
講演会は1990年に初めて依頼された。NGOで活動していれば、一度ぐらいは誰だって頼まれることがあるだろう。そのとき聞いていた人から頼まれて次、その次と、そのまま年に40回程度講演するようになっていった(今では年に300回以上だ)。
ぼくが他の人と違っていたのは、絶対に手を抜かなかったこと、そしてチャンスを生かしたことだろう。その講演会で話したことから、本の出版を依頼された。これもまた続いていって、これまでに20冊を超える著書を出した。
ピースボートのメンバーとは、1992年のブラジル会議で知り合った。そこから「地球一周の船旅」の船上でのレクチャーを頼まれるようになり、それぞれ2週間程度ながら20年近く乗ってきた。おかげで世界中を見て歩くことができた。
そして4年前、ぼくの収入は本職以外の収入が上回るまでになっていた。毎回「兼業届」を出して、まるで隠し事のようにする講演会を、本業としてやりたいと思った。そして退職した。
そのときになって、ぼくの周囲の人たちが止めようとした。ぼくはまじめに仕事をしていたから、戦力としては重要だったのだ。でも区役所の中では最低の扱いしか受けてこなかった。最低の昇給、最低の役職と仕事の内容。だから辞めるのにためらいはなかった。
そして今がある。それでもぼくは人に何かアドバイスできる立場にない。特に不良になることがいいことではないし、中卒だって勧められることではない。しかもここには書けないほどかっこ悪い、最低のこともやってきた。(前科はないけど)
ただ、ひとつだけ伝えたいことがある。
あきらめないことだ。そして自分を磨き続けることだ。
それだけあればなんとかなる。本当はこんな話は話したくない。でも友人からぜひ伝えてくれと言われたので書いてみた。しかも特定の人にしか届かない「支援版メルマガ」も作っている。そこなら思いきり心情を吐露してもいいだろう。
ぼくの本当の田中優はここにある。
だからどんなことになろうと、最初から最低の暮らしをしていたのだから元に戻るだけのことだ。こんな存在なのに、なにを怯える必要があるだろう。
今、ぼくは生きてきた中で、最も自分らしく生きている。
ぼくがめざしていたのは何かの資格を持つ専門家ではなかった。ただ自分の理想の「田中優」になりたかったのだ。しかしその理想形は、いつまで経っても進化し続ける。立ち止まるつもりはない。
次の自分が考える世界へ、そこにつながる最短コースを試行錯誤すること、そしてできれば実現すること、その終わりのない疾走を続けていきたい。