2013年5月3日

『 憲法の大切さを思う 』

2013.5.3発行 田中優無料メルマガより

日本の憲法、とりわけ9条は「理想主義だ、非現実的だ」という意見がよく言われる。しかし憲法は「今」の時代だけのものじゃない。将来、可能な限り永劫に使いたい理想像なのだ。

 私たちが可能な限り戦争をしない、なくしたいと思うのは当然ではないか。
 とりわけ多くの身近な人を犠牲にした焼け野原の戦後に立てば。

 今回取り上げた幣原喜重郎氏に対する聞き取りは、そのことを強く感じさせるものだった。現実だけで憲法を作ったら、「金儲けの自由」や「倫理のない職業選択の自由」などばかりになるだろう。
 理想を持たない憲法は「憲法」の名に値しないものだと思う。

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以下、4/30発行の有料メルマガより抜粋


 『 憲法の大切さを思う 』



言いたくない護憲

 今日は憲法記念日。しかし今年はいつもと違って、憲法を壊そうとする人たちの気配が濃厚にある。ぼく自身は環境活動家で、特に「憲法を守れ」という言葉を声高に言ったことはない。しかしぼくは今の憲法を貴重なものだと思っている。

 なぜ声高に主張しないかと言えば、ひとつは環境の活動をするのに思想統制されるべきでないと思うからだ。どんな考え方でもいい。活動するときに、その思想によって区別されたのでは、無意味に運動を狭めることになるからだ。

 「私は納豆にネギを入れるのには反対です」という意見と合わないから、だから一緒にやれないというのでは永遠に小さな枠の運動から出られなくなる。


 しかし一方で、大事なポイントで異なってしまった場合には一緒にできなくなることもある。でも可能な限り、違いは違いとして一緒にやれるだけの許容性は持ちたいと思うし、厄介さを回避したいからだ。

 もうひとつ声高に言わない理由は、「左翼」という狭い枠に閉じ込められるのが嫌だからだ。以前に雑誌で対談をしたときに、ある人から「田中さんはマルクス主義者ですね」と言われた。ぼくが答えたのは、

「ぼくはぼく以外の人の考えを信じなければならないほどバカではありません。
この肩の上に乗っている頭があるのですから、自分で考えて答えを出します」

というものだった。
ぼくはぼく自身で考えて判断する。そのための努力は欠かさない。


 それを「マルクスはこう言った!」の一言で結論付けるような、愚かしい判断ができるはずがないからだ。 (中略)



憲法に守られてきた実感

 ぼく自身の大学での専門は法律だった。だからずいぶん学んできた。そして公務員になったとき、宣誓書を書かされた。そこにはこんなことが書いてあった。「日本国憲法を尊重することを誓う」というものだ。ぼくは喜んでそこに署名した。なぜならこの憲法には思想信条の自由や平和主義があり、それに反することを仕事として押し付けられたとしても、それを拒む権利があるからだ。

 だから公務員になったとしても、「勝手な解釈による不正な強制」は拒むことができる。公務員の世界にもたくさんのおかしなことがある。しかしそれを拒む権利がこの宣誓によって与えられるのだ。

 そしてその通り、違法な命令に対しては拒み続けた。住民のためにならない命令には抗議を続け、理不尽な強制に対しては拒否し続けた。(中略)

 そのときぼくの後ろ盾になったのは、この憲法99条だった。ぼくは上司たちから雇われているのではない。サラリーは地域の住民の方々からいただいているし、仕事は憲法に則ってしているのだから。


戦争は容認しない

 しかしその憲法が変えられてしまったらどうなるのか。
 たとえば「戦争の放棄」がなくなってしまえば、軍隊による圧力が役所にかかってきたとしても拒否できなくなる。「思想信条の自由」がなくなってしまえば、当局からの強制に対して拒否ができなくなる。

 ぼくが住民の利益を考えて拒否してきたことが、拒否できなくなってしまう。もともと役所の中で上司からの命令を拒否しようとする人は少ないから、あまり変わらないのかもしれないが、それでも拒否できる後ろ盾を失うのは大変なことなのだ。中でも憲法9条は、安心できる社会の基盤だった。

(中略)

 その外交能力が史上最低レベルまで下がってしまった日本が、憲法9条をなくしてしまったとしよう。どう見えるかは明らかではないか。あの自分勝手で野蛮なことばかり言う政府が軍事に道を開いたのだ。戦争になる準備をしなければならないだろう。戦後に抑えてきた軍拡の猜疑心に道を開くのだ。

 しかし改憲論者は言う。「これは戦後の占領軍によって押しつけられた憲法であって、自ら自主的に制定したものではない」と。しかしそれにしては日本人の心情によくフィットする。そのことが不思議だった。

 しかし今回、以下の記録を読んでやっと理解した。この条文を入れたのは幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)だったのだ。
http://kenpou2010.web.fc2.com/15-1.hiranobunnsyo.html

(中略)


▼ あまりに日本的な

 こうした考え方は、少し前の日本人の生き方から考えたら素直に理解できる。人々は自分の利益のためではなく、人々に良かれと思って生きていたからだ。しかしそこには弱さもある。何より強く主張する人々に押し切られる危険性があるからだ。その強い主張がただの金儲けのためだったとしても、「彼があそこまで言うのだから」と受けてしまう危険性は常につきまとっていたのだと思う。

 しかし、こんないかにも日本臭い、書生じみた理想主義の日本国憲法がぼくは好きだ。「理想主義」という批判は当然だ。そうなろうとする理想像にすぎないのだから。しかし理想を持たない今の利益のためだけの憲法なら、そもそもいらない。

 憲法は理想に向けて、政府や権力を規制するためにあるものだ。権力者があまりにも勝手にすべての力を持ってしまわないように、少しずつ削ってきたのが「三権分立」だったり「立憲主義」だったりした。その権力を縛る大事な書類が「憲法」なのだ。


 これは国民を縛るためのものではなく、権力を持つものを縛るためのものなのだ。
その根本を理解していない政治家たちによって壊されるままにするのは、愚かすぎはしないだろうか。

「この縛っているロープが邪魔なんで取ってくれないか。
そうその調子。やっと外れたね。
せっかくここにロープがあるんだから、
このロープで君たちを縛らせてもらえないかな。
だって公共の福祉って大事だろ? 
福祉の名のもとに、君たちが義務を忘れて権利ばかり言い出したら困るだろ? 
全員じゃないよ、一部のわがままなヤツを縛るだけさ・・・」

 今の安倍首相は明治初期にやっとのことで解いた不平等条約を、TPPによって自ら受け入れようとしている。そして権力者を縛るためのロープで、国民の自由を縛ろうとしている。

 こんなことをさせないために、ぼくらは少しだけ賢くなったほうがいいのではないか。・・・

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つづき・詳細は2013/4/30発行の
田中優有料・活動支援版メルマガ「田中優の未来レポート」にてご参考ください。


▼第40号 「憲法の大切さを思う」
http://www.mag2.com/m/0001363131.html