2019年2月22日

「フードロスをどうするか」

2019.2.21発行 無料メルマガより

■ 別の解決策の可能性

 大学で非常勤講師をしていて、この時期は成績入力のための仕事に追われる。
登録した学生たちからのレポートが届いてそれらすべてに目を通して成績をつける。私が教えているのは環境関係だが、自分の引き付けて書くとなると、どうしても身近なライフスタイル論になりがちだ。

 しかし実際の二酸化炭素排出量で見てもゴミの排出量で見ても、その最大排出者は企業であって生活している人々ではない。そのことは授業の中でも話しているのだが、それでも個々人のライフスタイル論に話を結び付けたがる。

 そして話は「フードロスの話などへと導かれがちなのだ。気持ちはわかるのだが、ずっと授業をした側としてはなんとも寂しい。なぜ結局は「個人の食べ残し問題」になってしまうのかと。では自分が書く側だったらどうするのだろうかと考え直してみる。そう、システムの問題から見直してみたいのだ。


 食べ方を含めて文化なのかなとも思うが、中国の一部では食べきってはいけない文化のあること。食べ切ったら十分ではなかったと思われるので、十分だったと思ってもらうためには食べ残さないといけないのだ。もちろん食べ残したくはないのだが、あえて残すことで満足感を伝える必要がある。そんな地域で「フードロス」の問題をどうしたらいいのだろうか。


 そう、食料の量に胃袋を合わせるのでなく、胃袋に食料の量を合わせるのがいい。この中国の一部地域のしきたりに合わせたくはないのだ。それに都合のいい仕組みは、食べきれない分はお持ち帰りするのがいいだろう。そのための持ち帰り用品を準備した方がいいという結論が論文の最後に書かれていたりする。

 しかしこれを全体の中から考え直してみると、「もったいないことをした」と感じさせなければいいのだ。本当のところ、持ち帰ってから捨てるのは論外だし、他の家族やペットの餌にされてしまうのもちょっと気にかかるかもしれない。
でも持ち帰ってからどう処理したとしても、まぁ食事を提供した側としては納得できるだろう。


 「フードロス」が気にかかるのは、そこで残されたものが使われずに捨てられてしまうことなのだろう。リサイクルと同じで、そこで使われなかったものが次のサイクルにつながっていかないことに問題を感じるのではないか。できればそのままリユースされるのが一番いい。そうでなかったとしてもリサイクルされればと思うのだ。

 私の住んでいる地域では生ごみは分けて回収され、それは堆肥として再利用される仕組みになっている。でも地域は農業生産者が多く、時期によっては可食部以外のごみが膨大に出される。農産物はそういう宿命なのだ。それが堆肥化され、再利用されるのは良い仕組みだ。


 でもその堆肥化もベストな方法とは言えない。いつも登場させて恐縮だが、吉田俊道さんの「菌ちゃん農法」ではその生ごみが素晴らしい有機肥料となって、さらに元気な野菜を生み出している。発酵方向に向かわせることで有機物をアミノ酸レベルに戻し、次の農作物へと引き継がさせるためだ。腐敗で元素レベルに戻してしまうよりずっといい。

 そこで我が家では庭に捨て場を作った。昆虫のいない冬場では、雨が少ないことも手伝ってそのままでも良い土に変わる。捨てた部分にホトケノザが生えたり、食べ残した種が勝手に発芽したりして、豊かになった土に小さな野菜が育ってきている。これが一年を通して維持できれば良い土地となることで無駄にはならない。次の野菜の命に咲き継がれるからだ。

 都会でないから土地に余裕があってできることだが、わずかな土地があれば実際に可能だ。都会にもこれぐらいの土地があるといい。庭には小枝も落ちていて、不完全燃焼させることで炭も作れる。それは土地を元気にさせるのにとても良く立つ。田舎だから煙が多少出ても気に留める人もいない。それでも煙の出にくい「無煙炭化器」なるものを使っているが。


 こうして考えてみると「フードロス」とは、次に利用するあてのない食品残差の問題で、次に必要とするものがあるならば必ずしも問題ではないのだ。むしろ問題なのはそのフードが循環の輪の中から外れてしまっていることにある。

 そうであるならこれを循環の輪の中に取り込む仕組みがあればいいことになる。
汚いイメージのあるイエバエだが、ハエそのものは他の菌類が多くいるところに育つため、抗菌力が強い存在だ。これを利用して動物の排せつ物などを処理させると、抗菌性の強いタンパク質飼料と高品質な肥料を生み出すことができる。


 こうした処理を「ズーコンポスト」と呼んでいるが、この新たな可能性は非常に高いのだ。


 もしそうしたことが「嫌悪感」を乗り越えるなら、新たな可能性を生むかもしれない。そしてその物質循環の中に、廃食用品などが組み込まれるならもはや「フードロス」などと呼ばれる必要もなくなるだろう。


 そう見てくると、「フードロス」とは循環の輪から外れたものということになる。ロスではなく、新たなフード原材料となるとき、廃棄する必要のない有価物となる。放射性廃棄物のようなどうにもならない危険な有害物こそなくす必要があるのであって、他の価値あるものの原材料になるものを嫌悪しなくてもいい。

 たとえば魚釣りを楽しむ時には、蛆虫を「サシ」と呼んで用いるのだ。同様に嫌悪感を越えた形で廃棄物が再利用されるなら、それは二酸化炭素を撒き散らすことで知られる畜産動物の飼料となることもあるだろう。


 私たちと生物との関わりによってそのイメージは大きく異なってくる。関わりの輪の中に入れることによってその好悪の感じ方も大きく異なってくる。欧米の人たちの方が私たち日本人よりよほど汚いものに対しての嫌悪感が大きい。リサイクル品ですら毛嫌いするほどだ。それが少ないことは私たちのメリットなのかもしれない。


 「ズーコンポスト」と共に未来を見直してみてはどうだろうか。



(イメージ)