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2016年10月14日

『 原発を中止させた町 ~窪川町と南島町~ 』

20016.9.26発行 田中優無料メルマガより


『 原発を中止させた町 ~窪川町と南島町~ 』


■興津の浜


 全国津々浦々を講演旅行していたせいもあって、全国どこの原発も見て来てい る。そのせいもあって勘も働く。先日家族で海水浴に出かけたときも原発の匂いを感じた。切り立った岩山をくねくねと下っていく道、「鳴り砂」があるほど美しい浜、汚れのない海、まさにこういうところが原発に狙われる。

 場所は四国高知県、四万十市の海だ。家族連れなので遠浅の砂浜、汚れのない海、混まない場所を探した。幸い岡山県から四国は近い。本州四国連絡橋を使えば家から一時間ほどで四国に着く。瀬戸内もきれいだが、今回は透明度の高い太平洋を選びたかった。そして見つけたのが興津海水浴場だった。スマホのナビに従って走っていくと、海岸べりのハウスが並ぶ小道に着いた。とても海水浴場に見えない。近くの人に聞くと、とても親切に教えてくれた。そこに行けば海水浴場もシャワーやトイレ設備もあると。

 到着してみると、施設も充実した美しい海岸だ。小耳にはさんだ「結構人がいるけど大丈夫だ」の声を気にしながら砂山を乗り越えると、全然空いている。関東ならガラガラと表現するようなレベルだが、こっちの人にとっては少なくないのかもしれない。





■窪川原発予定地

 新たに来た人が、海の監視員さんと話しているのが聞こえた。
「こないだ福島の飯館村に除染ボランティアに出かけたんだ」と話している。
そして話の最後に「ここに原発ができなくて良かったよ」と。

 そうだ、ここは窪川原発の予定地だった窪川町だった。今は四万十市に併合されているが、かつては窪川町だった場所ではないか。地図で調べてみると、原発予定地は別な岬の裏側で、少し離れた場所にある。未舗装の断崖絶壁に続く細い小道で、家族連れでないときでないと行けそうにない。

 そこでは島岡さんというもともと警察に勤めていたことのある人がいて、その人が地元に帰って農業を始めていた。自民党の党員だった島岡さんは、あるとき既成事実のように原発建設計画のあることを聞き、ひとり反対を決意した。自民党の町議員だというのに単身で共産党の集まりに出かけ、「ここの町では保守系の人が圧倒的に多い。革新の人が反対運動をやっても負ける。私を反対運動の代表にしてくれないか」と主張し代表となる。

 島岡さんは不審者の車に跳ねられたり、腹を刺されたりしているがくじけない。「オレを殺しても反対の運動は続くぞ」と。そして町長リコールに成功したが再び旧町長が返り咲くも、原発推進の予算を組ませなかった。そして1986年にチェルノブイリ原発事故が起こり、周囲の漁協も調査に反対して身動きできないところに追い詰め、町長は辞任し原発計画は白紙になった。

 特に福島原発事故が起きてからは、島岡さんのおかげであんなことにならずにすんだと手のひらを返したように称賛されたそうだ。それまでは町を分裂させた張本人であるかのように、誰も話しかけてこなかったと述懐している。


■芦浜原発予定地

 ぼく自身は三重県南島町の芦浜原発予定地にも関わっていた。芦浜もまた美しい浜だが、そこに人は住んでいない。大きな津波が来た時に全滅したと聞いた。
確かに人の住んでいた形跡は残っているのだが。芦浜原発では反対運動が続いていた。計画発表が1964年で、計画中止に追い込んだのが2000年だから、闘いは37年に及んだ。それだけ長いと最初の反対運動に30歳で関わった人ですら67歳になってしまう。長引く反対運動のせいで、反対運動は代替わりをしなければならなくなっていた。

 その代替わりの時期に芦浜原発予定地を訪問し、地元で反対する若くて乱暴だが勢いのいい小西さんという漁師と意気投合して関わることになった。友人の弁護士が参加して、訴訟費用が安くなってから初めての「株主代表権訴訟」をここでした。本来、株主の利益を守るための訴訟費用を安くしたのに、原発反対に利用したとさんざん叩かれたが、それは中部電力の動きを鈍らせる効果は持った。
友人の弁護士は本当に立派だった。

 「先生よぉ、オレたちゃカネ払ってんだから先生の方でやってくれよ」と漁師たちが半分脅しのような声でやってきても、「ぼくらのやれることは相手の足を一瞬止めさせるだけのことだ。あんたたちが運動してくれないと止まらないよ」 と答えていく。文字など数十年書いたことがないという漁師に反対の決意を書かせ、「これでいいんだよ、きちんと書けてるじゃないか」と言って励ます。そのおかげで漁師町の人たちは弁護士に依存することなく、中部電力本社前にバス10数台をチャーターして乗り込む。


■彼らのおかげで浜は残った

 事態はあっけなく終息した。2000年2月、三重県知事が涙ながらに中電に中止を訴え、それを受けて中電が中止を決意したというものだ。しかし話がうますぎる。実際には電力自由化の流れの中で中電は費用のかかる原発と揚水発電所の建設を断念せざるを得なくなり、南島町の過半数を握っていた反対運動のせいでも、経営の問題でもなく見せながら、白紙撤回したのだ。その下準備が整ったところで県知事の県議会への説明があったから、翌日には中電も中止を承諾したのだろう。


 どちらの原発予定地も、計画を止めたのは地域の人々だった。島岡さんや小西さんのような名もなき地域の人たちが止めたのだ。芦浜原発予定地だった南島町では、止めるまでに長い時間がかかった、それだけでなく推進・反対の対立で、地域から祭りが消えるほどの分裂を招いた。それだけでなく南島町でも運動の中心メンバーのひとりが不審死している。遠い東京にいるぼくにすら、職場や家まで嫌がらせのハガキが届いた。南島町の人たちからお礼を言われたが、お礼を言いたいのはぼくの方だった。

 今見る美しい海辺は、誰かの命がけの努力のおかげで保たれている。気持ち良い浜での海水浴ができることすら、彼らのおかげだ。自然の浜にも人の歴史があるのだ。