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2015年6月11日

『過去の過ちを認めて未来へ進もう』



■自転車操業の侵略

 この(2015年)4月、初めてシンガポールのチャンギ博物館を訪れた。といってもシンガポールには何回も行っている。チューイングガムが持ち込み禁止だったり、何をしても罰金になるこの国は、ぼくの趣味に合わないから出かけなかったのだ。
 
 しかしピースボートの依頼で船で講座をし、妻子と一緒だったので自分だけの好みで決められない。妻は「戦跡の検証コース」のツアーを望んだので、ぼくもつき合って初めて戦跡を訪れたのだ。


 日本は日露戦争のときにはイギリスでボンドを発行し、その費用で戦争をした。
しかし第二次大戦時にはイギリスもアメリカも敵なのだから、ボンドの発行はできなかった。

 そこで日本が選択した方針は、資源奪取の自転車操業だった。侵略した先で資源を奪い、それを販売した資金で戦争を継続しようというものだ。こんな無茶な方針だったからこそ、たくさんの日本兵が戦闘ではなく餓死・病死したのだ。シンガポール自体は交通の要衝ではあるが、資源のある国ではなかった。求めたのはインドネシアの資源で、そこに攻め入るための通過点だった。いわば「行きがけの駄賃」のような戦争被害なのだ。


■「粛清」の現場で

 シンガポールに攻め入った司令官の山下奉文らは、シンガポールを通過してその先に進んでいった。そのためたくさんの虐殺事件(「粛清」と呼ばれている)を行ったのは、兵士ではなく憲兵など治安部隊の人たちだった。

 「粛清」は、拡大する日中戦争の中で東南アジア各地の華僑らの「抗日運動」が広がっていたためだ。中でもシンガポールの華僑は抗日運動の中心だとみられていた。それを粛清せよという命令が下っていたのだ。実際、作戦参謀だった辻政信は「シンガポールの人口を半分に減らすくらいの気持ちでやれ」と命令していた。
ちなみにこの辻は、戦後に処刑を恐れて逃亡し、その体験記で人気を得て国会議員になっている。一方で粛清に反対しながら従わざるを得なかった隊員が戦犯として処刑されている。

 粛清を行う憲兵らの後ろ盾になるべき軍隊は存在せず、食料すらおぼつかないのだから、粛清の実際は人減らしのようなものだった。検問所では18歳~50歳の成年男子を漏れなく取り締まり、調べた上で抗日分子とされれば処刑された。しかし実際の審査はいいかげんで、無差別虐殺と化していた。「身なりがぎれいなインテリだから」というような理由で、海岸で機銃掃射されて殺されていったのだ。後にシンガポールの首相になったリー・クアンユー氏も、彼自身が粛清される寸前で逃亡して生き延びた人なのだ。

 日本側も粛清の事実を認めている。ただし数が違う。日本側は5000人程度としているのに対し、シンガポール側は8万人程度としている。その数を言っているのは他ならぬ故リー・クアンユー氏なのだ。

「過去がどんなに痛ましいものであったとしても、過去の経験にとらわれることなく、今に生き未来に備えなければならない」として日本と和解した人だ。


 戦争メモリアルの除幕式で氏は述べている。

「日本のシンガポール占領時代に亡くなったすべての民族と宗教の人を覚えていることは、過去を乗り越える過程の一部だ。我々は忘れることはできない。完全には許すこともできない。しかし、最初に魂に安らぎを与え、次に日本人が誠実に謝罪をあらわしている中では、多くの人の心にある苦しみを救うことができる。…私はこの希望の中にいる」と。




■過ちを認めるから未来を創れる

 その虐殺現場の一つを訪れた。ただ小さな黒い「チャンギ海岸」と書かれた石に事実経過が書かれていた。向かい側はマレーシアになる細い海峡の砂浜、穏やかな波音に混じって熱帯の鳥の声が聞こえる。





 これまで南京大虐殺記念館を訪ねたり、日本側が加害者であるたくさんの現場を訪ねているというのに、今回はいたたまれない気持ちになった。

 その理由のひとつは特に加害者を声高に罵しるのではなく、抑制された言葉で事実を淡々と記しているだけのメモリアルだからだろう。博物館は特に有名な場所でもないのに、マレー系、インド系、中国系、アラブ系とおぼしき人たちが訪れている。何らかの関わりのあった人かもしれない。しかし彼らは静かに説明に耳を傾けている。


 もうひとつあるのは今の日本の状態だ。これまでは少なくとも日本政府は加害行為を認めていた。だから『加害を知っていながら訪ねてきた日本人なのだから、許そう』という空気が周囲に漂っていた。もちろん許せないからこそ、彼らはそう考えるのだが。

 ところが今の日本は、首相を始めとして戦争の加害行為をなかったことにしようとしている。日本国内では「自虐史観」などという言葉で、自らの過ちを認めることは自虐だとする風潮が広がっている。これが居心地の悪さを増幅していたのだ。

 自分に都合の悪いことを認めないのは幼稚だ。熱帯では有機物の分解が早すぎて養分にならない。そのため食料はあるが密度が低い。シンガホールは東京23区ほどの大きさしかないのに、そこでは何万人もの人を食べさせることはできない。人々は飢えていった。人減らしを考えたのだろう。

 もしアジアの解放を言うのであれば、そこに住んでいる人たちを養う必要がある。
しかし自転車操業の侵略では、それもできないことだった。


 おそらく世界中のあらゆる民族は、血生臭い経験をしている。清廉潔白な民族などないと思う。だからといって許されることではない。許されないのだから、二度と起こらないように語り継がなければならない。なぜそんなことが起こり、何が分岐点になったのかと。

 しかし今の日本政府は、不都合な歴史を捻じ曲げようとする。それが恥ずかしい。


『私は罪を起こした人々の子孫です。謝って許されないことはわかっていますが、謝意を伝えたい』と伝える政府でないことが、この居心地の悪さを作っていたのだと思う。

 自らの罪に向き合わないのは卑怯だ。その罪は未来に対しての行為で償うしかない。過去を認めない政府には未来の話ができない。それが、心を重く塞いでしまったのだと思う。