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2009年1月5日

「共感する感性とタフな行動力」 ~パレスチナ情勢に寄せて

緊急に臨時のメルマガを発行しました。
こちらにも掲載します。

□◆ 田中 優 より ◇■□■□◆◇◆◇■□■□

「共感する感性とタフな行動力」

共感する勇気

 心を落ち着かせて、ゆっくり構え、音楽と向き合う。すると音の重なりの中からその人の感情が届いてくる。『そうか、こう感じたのか』と対話する。書物も同じだ。筆致を追うようにしてリズムを辿りながら言葉を味わう。『あの語ではなく、この言葉を使ったのは、このイメージを避けたかったんだな』と。

 音楽を聴いているときに外で大きな音がするとびっくりして、次第に腹立たしく思えてくる。せっかく辿りかけていた気持ちの糸が切れるように思えるからだ。同じ音楽を聴いているのに、先ほどの文脈が辿れない。神経が鋭敏になっているとき、人はきっと奇跡的なほどの感受性を持つ。人の考えていることが分かるというより、共振現象のように同じ想いが湧き上がる。もちろん全く同じではないにせよ、心を無にしていると同じように感じることができる。


 もししてみたいと思うなら、何も考えず期待せず、ただ自分自身といるときのように隣に座ってみるといい。動物と一緒にいると、その気持ちが伝わってくるのと同じだ。人は共感する生き物だというのがよく分かる。


 しかしその一方で思う。人は感性だけで生きていてはいけないのではないかと。ぼくの友人たちの中にも、感性が非常に研ぎ澄まされた人がいる。しかし彼らは多くの悲惨な事態に、耐え切れないほどの苦しみを抱く。ダメージのせいでモノが食べられなくなったり、眠れなくなったりすることは誰でもあるだろう。しかし人によっては仕事に出られなくなったり、生きる意欲を失いかけたりする。おそらくは感性が研ぎ澄まされる場所に長くいすぎたせいなのだろう。


 だがそれは一方で、日差しの強さに耐えられない陰樹のようでもある。ときには真正面から日差しを受け、この世界の現実から目を背けないように踏みとどまる勇気も必要だ。


「喜べない生存」

 2008年の暮れから今もなお、パレスチナはイスラエルの一方的な攻撃によって多くの死傷者を出している。何もしていないのに、外に出ることも許されないパレスチナの中で上空から爆撃している。それは運の悪い宝くじのように、不意に誰かが殺される。もし対抗しようとするなら、『やっぱり過激派のハマスのメンバーだ』と攻撃を正当化されてしまう。


 あなたがその場にいたらどうするだろうか。逃げ道はない。近い友人や家族、子どもたちまでもが無残に殺されていく。『その死が自分でなかったこと』を喜ぼうものなら、たちまち自己嫌悪に襲われるだろう。殺されるのは誰でもよかったのだから、自分が殺されなかったことは他者の死に責任を感じなければならなくなるからだ。ぼくはインターネットでその死の瞬間を目にする。そうしなければいけないような義務感に襲われながら。

 だからイスラエルに関係するコカコーラやマクドナルド、スターバックスのコーヒーのようなものは買わない。せめてもの抵抗だ。友人たちはイスラエル大使館に抗議行動に出かけた。なにかせずにはいられないのだ。『そこにいるのが自分だったら…』という感性は、耐え難い苦痛を作り出す。

 しかしそれでも目を向けていたい。人にとって最も屈辱的で悲しいことは、誰からも忘れられてしまうことだ。自分がひどい目に遭っているのに誰もが目を背け、誰もが知りたがらないとしたら、これほど悲しいことはない。誰かがひ弱な小さな声でいいから「もうやめておけよ」と言ってくれないものか、「それ以上するなよ」と諌めてくれないものかと願うだろう。それがない中での死は、陽の差さない真っ暗で絶望的な「漆黒の死」になってしまう。

 ぼくが欲しいのは感性を残したままのタフな神経だ。事実に目を背けずにいたい。しかしその死の理不尽さにも、動揺しないで見続けるタフさだ。耐えることで自分の存在を確認する、目を背けない勇気をもって自分の存在を確認するような…。もちろん誰もが耐えられる神経を持つわけではないことはわかっている。それでも一人でも多くの人がそうならなければ、たとえばパレスチナで殺されていく人たちを「漆黒の死」に追いやってしまうことになる。

 カンボジアの「トゥールスレーン」という名の、ポルポトによる拷問・殺害の場となった元高校跡地を訪ねたときもそうだった。アルゼンチンでピノチェトに爆撃・殺害されたアジェンデ政権のパレスを訪ねたときもそうだった。あまりのショックとうんざりしたような気持ちに襲われて、数日は何もできなくなる。人にはきっと人殺しをなんとも思わない残忍さが隠されているのだ。しかしその残忍さを拒否できるとしたら、きっと強い意志の力だろう。


 タフでありたい。最後の一時まで自分自身でいたい。感性は絶対必要だが、それだけで生きようとするには、この世界は野蛮すぎるのだ。

 一人の人間が人を殺すときのほうがまだ理由がある。しかし国家などに他人の命を勝手に奪う権利はない。どんな理由を持ってこようが許されることではない。誰もが国家に楯つくだけのタフさがあるわけではないのはわかっているが、それでもせめてイスラエルに「人を殺すな」と言ってほしい。

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以下は、ぼくの信頼する江戸川の地域の仲間、大河内秀人の文章です。

ぜひお読みください。
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大河内秀人@パレスチナ子どものキャンペーン(CCP) です。
(転載転送歓迎。クロスポストご容赦下さい)

 ガザ空爆に関して、様々な感想や意見が寄せられ、また耳にします。


 パレスチナ側に同情的なもの、イスラエルの攻撃を支持するもの、中立的・評論家的な分析、等々、立場や価値観も様々です。 

 戦争というのは、起こっている一つ一つが事実であり、その経験や証言の一つ一つは重く受け止められるべきです。そして、加害者に対する怒りと、被害者に対する同情も、人間として当然であり、また必要なことです。 

 しかし忘れてならないことは、その個々の事実や経験は断片的なものだということです。その背景には様々なレベルでの原因や条件があり、時間的(「歴史的」というとすぐ数千年遡られてしまうので避けますが)な経緯と社会(国際)的な環境や認識が大きく作用しています。なので、紛争に対してコメントや判断するためには、その原因とメカニズムを、現象面・意識面で、全体的・構造的に捉え、さらにそれぞれを掘り下げる必要があります。

 たとえば「イスラエル人の8割がガザへの空爆を支持している」と報じられていることについて、考えてみます。

 まず「イスラエル人」とは誰を指すのでしょうか? 

 イスラエルに住む人々ということでしょうか? 
 イスラエルの選挙権を持つ人々ということでしょうか? 

 イスラエルには、ユダヤ人以外に、イスラム教あるいはキリスト教を信じるアラブ人も少なからず暮らしています。ハマスのロケット弾でアラブ系の住民も被害を受けたという報道もありました。市民権を制限されているとはいえ、彼らもイスラエル人です。また、イスラエルに住んでなくても、イスラエル人として選挙権を持つユダヤ人が世界中にいます。そんな疑問をもたれることもなく“8割”という数字が一人歩きします。

 また別の視点から押さえてほしいことは、一般的なイスラエル人(前述のことから矛盾する表現ですが・・・)が“ガザ”に対して持つイメージがあります。彼らにとってガザは、テロリスト集団の住む無法地帯であり、自分たちと同じ人間が住んでいるとは思っていません。ガザに行ってきたなどと言うと、「よく無事に帰って来れたね」という反応が普通です。敢えて言えば、東京の人に「釜ヶ崎に行ってきた」みたいな感じでしょうか。 


 つまり、差別や偏見が暴力を容認し、虐殺を引き起こすのです。昨年3月、初めてエルサレムの「ホロコースト博物館」を見学しました。人々の中に差別や偏見を植え付け、暴力的政策を拡大していくプロパガンダに関して学習する場所でした。そういうメッセージを世界に発信している国が、現代のホロコーストと呼ばれるガザで大虐殺をおこなっているのです。

 私たちは、個人的にも社会的にも、その憎悪や憤りがどこから来るものなのか、何によってもたらされたものなのか、感情を揺さぶる情報ソースと共に、揺さぶられる感情のあり様についても、冷静に問いかける必要があります。「客観的」という見方は内面に向けられて重みが増します。

 次に時間的な流れを振り返ると見えてくるものがあります。シャロン政権は2005年、西岸地区で“壁”や道路等を伴いつつ入植地政策が拡充されている一方、一部の強硬な反対を押し切って、ガザの入植地を撤退しました。それをハマスは、自分たちの闘争の成果と宣伝し、2006年の選挙で勝利しました。その結果、国際社会はハマス政権を嫌い、パレスチナサイドは混乱、分裂し、ハマスの支配が続くガザはますます窮地に追い込まれています。 


 イスラエル国内だけでなく、パレスチナ社会や国際社会の世論とムードのコントロールを含め、シャロン政権のシナリオ通りに推移していると言えます。入植地がなくなりユダヤ人がいなくなったことで、心置きなくガザを空爆することができます。 

 当初、ガザからロケット弾を撃ち込んでいたのは、ハマスではない、ごく一部の過激派でした。しかし封鎖による欠乏や不満が極限状況に達して、ハマスもついに正面切って参戦したところで、待ってましたとばかり、イスラエル軍が大規模な作戦を開始しました。軍事力、情報力で圧倒し、実際の主導権を持ち続けていたイスラエルに大義名分が与えられるよう、何年もかけて仕組まれたのは間違いありません。

 このような暴力を助長し、戦争に導くメカニズムについて、パレスチナだけでなくイスラエル側でも、冷静な視点を持つ市民やNGO・平和団体は見極めています。“苦”の側に立ち、その苦の原因を根本的かつ構造的に追求し、あるべき共存の未来を描く想像力のある人々が、その可能性を訴えつつ、地道な努力の積み重ねや対外的なアピールも行ってきました。そして大惨事が予想される政策に対して警鐘を鳴らしてきました。 


 そのような市民感覚、現場感覚を持ったNGOや市民団体の警告や努力が踏みにじられ、“苦”への感性が“力”の側のプロパガンダに、人権が覇権に、負けたとき、国際社会の抑止力も効かず、アフガニスタンでもイラクでもレバノンでも、多くの人々の命が奪われ、さらなる不安定がもたらされました。日本への原爆投下を含め非人道的な攻撃は、仕組まれた憎悪が人権を否定することで成り立ちます。

 圧倒的強者が被害者の立場を大義名分に、差別と偏見を利用し、嘘と情報操作でたぶらかし、乱暴な正義を振りかざして土地と利権を貪る「対テロ戦争」の文脈が、日米の次の政権に引き継がれないよう、人権と平和の実現に向けた様々なレベルでの活動を積み重ねていきたいと思っています。

参考▽「テロとの戦い」の本当の対立軸
http://www.juko-in.or.jp/Message2005.htm#051009vsterr

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大河内秀人 Hidehito OKOCHI
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